江戸時代後期に北海道で活動した探検家松浦武四郎は、
安政4年(1857年)に尻別川の鈴川(喜茂別町)から河口までアイヌの案内役4人と丸木舟2艘で下りました。
その行程を武四郎がまとめた「丁巳東西山川地理取調日誌」には、
ニセコ付近での川下りの様子も詳細に記録されています。
現在のこの区間は水力発電のダムなどで大きく変化している部分もありますが、
山が両側に迫り、川は左右に大きくうねり、分流と合流を繰り返す様は、160年前の当時とそれほど変わらないと思います。
また、ダムの止水部分を除けば、武四郎達を苦しめたフィラ(瀬や激流)が数多くあり、
1日に3里しか下れなかったという難所の面影を残しています。
6月15日、武四郎が記録した尻別川の面影を探りに、カヌーで比羅夫駅からニセコ大橋まで下ってみました。
雪解けの増水期も終わり水位がかなり下がっていて、カヌーでは下れないところも数か所ありましたが、写真をとったり地図を見たり資料を読んだりしながら約3時間ぐらいで下りました。
武四郎が下ったとされるのは9月中旬から下旬にかけてです。
当時はダムもなく、そのままの森林が残っていた時代なので、いまの尻別川の9月の水量よりはるかに多かったと思います。
今回よりは快適に下れたのではと思いましたが、記録を見るとこの区間に3日も費やしています。
武四郎たちは危険を避けるため、フィラでは船を降り、人力で船を引き上げ移動させたり、ロープを使って船だけを川に流したりして下ったのでした。
ざっとですがこの区間のフィラをかぞえたら33箇所ありました。ダムにより水没してしまったフィラも加えると40箇所以上はあったと思われます。
また、最大の難所と記録されているのは現在のダムのあたりにあったフィラのようです。日誌には両岸は崖になっており、大岩がゴロゴロと重なり、その間を滝のように水が落ちるとあります。
この難所では、上にある木に縄をかけ、船を13~14mも引っ張りあげ、笹原を50m引きずりまた縄で川におろしたとあります。さぞかし骨が折れたことでしょう。
この近くで野営した武四郎は「河口までどれだけかかるのか、一同心細くなってしまった。ただ、山の霊に無事をいのるのみ」と記しています。
この後もフィラは続きますが、ニセコの街が近くなったのか両側の山が低くなりなんとなく視界が開けてきます。JRの鉄橋を2回くぐりました。
フィラの険しさも一段落です。記録では「さっきのところさえ超えれば、この先恐れるところもあるまじと、一同喜んだ」とあります。どのあたりだったのでしょうか?
ニセコ市街地にさしかかるところに発電所と放水口があり、水量が豊富になります。川がニセコ市街地を流れるようになると多少のんびりできます。この後も旅は続き、蘭越町黄金まではフィラの記録があります。今回はニセコ大橋で上がりましたが、さらに下流の様子も調べるつもりです。
3日後に同じルートを郷土史研究家の方と二人で下りました。ちょっとした落ち込みで転覆してしまったのですが、防水バックのおかげで資料や機材は濡れませんでした。しかし、江戸時代の筆記用具は墨なので資料は絶対に濡らせないものだったと思います。武四郎にとって記録は何物にも代えがたい貴重なものだったことからも、丸木舟が転覆したり、沈んだりしないように細心の注意を払って難所に挑んだものと思われます。